山谷地域の概要

( 出典:財団法人城北労働・福祉センター資料より抜粋 )

• 山谷地域の概要

簡易宿所の密集地域 "山谷"泪橋交差点 ( 「明治通り」 と 「吉野通り」 ) を中心に、台東・荒川の両区にまたがって広がる、簡易宿所の密集地域。面積は約1.65km²。町名としての山谷は昭和41年に消滅しており、現在は 「 山谷 」 という地名は存在していません。
泪橋 (なみだばし) は、江戸時代に小塚原の刑場で処刑される罪人が振り返って泪を流したことからその名が付けられた、とされています。その後、当時の川は明治通りに姿を変え、労働者の集まる街が形成されました。

南千住駅側から泪橋方面を望む最近では、ビジネスマンや外国人旅行者向けの高層宿泊施設の建設が多くなるなどしており、泪橋交差点を中心とした旧山谷地域は大きく変貌を遂げつつあります。

南千住駅側から泪橋方面を望む(平成18年11月頃)

家族のある人も独居の人も人間としての触れ合いを深め、その命と向き合う中で共に成長していきたいと考えています。一人ひとりのかけがえのない命の重さに触れることこそ、私達の目指す看護です。誰に対しても差別することなく接し、命の重さに尊厳を持って答えることこそ、私達訪問看護ステーションコスモスの使命とも思っています。そんな心ある訪問看護ステーションとして育っていきたいものです。

• 山谷の歴史

簡易宿泊所(ドヤ)の玄関太平洋戦争後、戦災により焼け野原となった都内には被災者が溢れ、とりわけ上野周辺に集中しました。治安への影響を重視したGHQ ( 占領軍 ) 当局は、東京都に被災者の援護を要請し、山谷地域などに仮の宿泊施設 ( テント村 ) を作り、山谷地区旅館組合への委託を行いました。テント村は間もなく本建築の簡易宿所に変わり、また、日本経済の復興により労働需要も増加しました。

※ 昭和28年には、約100軒の簡易宿所に約6,000人が宿泊していました

簡易宿所・クリスマス風景昭和30年代には、日本経済の高度成長に伴って、土木・建築作業や港湾荷役作業における労働需要が高まり、山谷地域は全国有数の 「 寄せ場 」 ( 日雇労働市場 ) に成長しました。昭和39年の東京オリンピック開催に向けて進められた都市基盤の建設・整備は、山谷地域の日雇労働者の力なくしてはあり得ませんでした。

※ 昭和38年10月には、222軒の簡易宿所に約15,000人が宿泊していました

センター1階 寄せ場の様子(平成19年1月頃)しかしドルショック(昭和46年)及び第一次石油危機(昭和48年)の影響で日本経済が動揺すると、労働需要は減少して、その後、第二次石油危機(昭和54年)を経て低成長時代を迎えることとなりました。昭和60年代には 「 バブル経済 」 の下、首都圏を中心に土地取引及びビル建設が活発化しました。これにより土木・建設作業における労働需要が急増して、人手不足の状況が発生しました。

しかし現在は、建築産業の機械化・省力化の進展と長引く不況によって、労働需要は激減しています。また、労働者の高齢化が進んでいることもあって、就労をはじめとする生活環境はきわめて厳しくなっており、簡易宿所に宿泊している日雇労働者も減少を続けています。

※ 平成18年12月には、166軒の簡易宿所に5,000人弱(ピーク時の3分の1)が宿泊しています

Copyright (C) 2003 Visiting care station Cosmos